透視能力に関する考察 BGM:'月の光 ' mixed by VIA MEDIA -------------------------------------------------------------------------- 0:序。 この度、縁あって「第三の眼」に拙文を投稿させて戴く事になった。「第三の眼」 の主宰者の尾崎貞夫師は斯道の達人であらせられるので、三流魔法使い且つ破戒行 者たる筆者のような存在が半可通の愚説を弄するのは些か冷汗三斗の感も無きにし も非ずではあるが、「袖振れ合うも他生の縁」と言う言葉もある事であり、読者諸 兄の峻烈なる御批判を戴くのは覚悟の上で、多少なりとも斯道を志す熱心なる修行 者諸賢の参考になれば幸甚との思いで、ここに筆者の所信を開陳させて戴く。 尚、予め申し上げておくと、筆者の論説と尾崎師の論説にはかなりの「温度差」 がある事は承知しているが、ここに述べる事は尾崎師の説を否定するものでは決し てなく、あくまでも「このような事もある」と言う「一つの可能性」を示すものに 過ぎないと言う事は御断りしておく。 1:筆者のオカルト遍歴。 そもそも筆者が斯道に入ったきっかけとなったのは「占い」からである。それも、 小学生向き雑誌に掲載されていた「星占い」(今でもよく覚えているが、「マリー・ オリギンの八占星術」)であった。 それをきっかけとして色々な小中学生向きの占いの本を購入し、研究した(無論、 殆どが他愛ないものではあったが)。 占いの研究を続けている時、十代半ばに、タローカード(タロットカード)に出 会ってその神秘的な世界にたちまち魅せられてしまい、研究にのめり込む。テキス トは無論、木星王氏の一連の著書であり、その後、氏が主宰しておられた「ブラザ ーフッド・オブ・デーモン」なるサークルにも入会し、色々と研究していたもので あった。 その頃、時を同じくして、ビーバン・クリスチーナ著・「西洋呪い術入門」と言 う本に出会う。思えばこれが「『占い』と言う『受動的技術』」から、「『呪い』 と言う『能動的技術』」に転換した「最初の一歩」だった(この記述は同書に書か れていたものであるが、今にして思えば、これが筆者の研究を大きく遠回りさせて しまう事になった事は否定出来ない)。 「呪い術」と言う、「自分から働きかける技術」に夢中になった筆者は、類書を 探し回る事に狂奔した。当時「西洋の呪術」の本は少なかったため、「東洋のまじ ない」の本を買い漁り、果ては、クラウド・ブリストルの「信念の魔術」に代表さ れる「ビジネスマン向きの自己啓発書」まで買い捲ったのである。 このような道を歩む者が、ヨガ、仙道、密教と言った場所に辿り着くのは当然と 言えば当然の事であり、当時急速に会員を拡大していたある密教系宗教団体に入会 する事となる。その団体に関しては少々疑問を感じた事もあり、2年半で退会した のだが、その時にその会で知り合った人に、W.E.バトラー著・「魔法入門」と 「オカルト入門」を紹介され、購入した。但し、この2冊は当時の筆者には非常に 難解であり、流し読みしただけで終わってしまった。 そして、その密教系宗教団体を退会して暫く経った頃、織田隆弘著・「密教 宝 庫を開く」と言う本に出会った。この本がきっかけとなり、その後、織田師の主宰 される「密門会」に入会した(「密門会」には一応現在も所属はしている)。 さて、こうやって色々とやっていたのであるが、実際の所、「では何か出来るよ うになったのか?」と言われると、それが、「何も出来るようにならなかった」の である。しかし筆者としてはそれに疑問を感じる事もなく、「何か他にもっと凄い 物がある筈だ」と思い込んで色々と遍歴を続けていた。今となってみると、それは その「修行体系」に問題があったのではなく、「飽きっぽい」と言う「筆者の性格」 に問題があったのだったが、その当時はそれに気付かず、興味の赴くまま研究を続 けていた。そして二十代の終わり頃になって、朝松健著・「西洋魔術実践マニュア ル」に出会い、その本に紹介されていた「I∴O∴S」と言う魔術結社に入会し、 その後数年間、本格的に「西洋魔術」を研究する事となった。 飽きっぽい筆者にしては珍しく、「西洋魔術」の研究は比較的続いたのだが、や がてそれも三十台半ばにして終わる事となった。理由は、結局の所、「面倒臭くな った」からである。筆者は「I∴O∴S」を退会し、「密門会」の主張する「正純 密教」の道に帰った。 「密門会」の主張する「正純密教」とは何も難しい事ではない。要するに、「姿 勢を正し、背筋を伸ばして半跏座で座る。手に法会定印を結び、大日如来の大慈大 悲を素直に戴く気持ちになって、ひたすら『オン・アビラウンケン』と言う真言を 唱える事」に集約される。それが密教の根本の「三密加持」であり、それ以外には 何もない、と言う事である。 しかしながら、これは当時の筆者には余りにも「呆気なさ過ぎ」た。そのため、 「こんな簡単な事でいいのだろうか」と言う気持ちを拭い去る事が出来ず、常に心 に疑問を持っていた事は事実である。そのために高価な密教関係の本を色々と買い 漁って研究はしたが、その中からは結論は出なかった。 しかし自分としては「正純密教は最後の拠り所」である。それ以外に道はなかっ た。それで肩肘張って色々と研究しながらやっていたのであるが、ある時、根本的 にアホらしくなってしまい、「ええい、もうこんな事はやめだ!!」と考えて、全 てを放棄したのである。 話は前後するが、「密門会における正純密教の三密加持」は、あくまでも「成仏 道の副産物」としてではあるが、「病気治し(ヒーリング)」を「謳い文句」にし ている事は否定出来ない。筆者としては、「微力ながらも、何とか多少なりとも病 気で苦しんでいる人のお役に立てば」と言う「タテマエ」で「修行」していたが、 「ホンネ」を言うと、やはり「病気治しの能力を獲得したい」と言う気持ちがあっ た事は否定出来なかった。しかしそれもままならず、結局は、「どうしても病気を 治して欲しかったら密門会に頼んだらええんや。こんなしちめんどくさい事はやめ てしまえ」と考えて、全ての研究と修行をやめてしまった。 そうなってからは実に気楽なものだった。「やりたいときにやればよい。やりた くなければやらねばよい」と考えているから、真言を唱えるのも苦にならない。思 い出したら真言を唱える、忘れている時はなにもしないと言う生活が続いた。 そうこうしている内に、筆者が「占いを少々やる」と言う事を知った人から占い を頼まれる事がポツポツ出て来た。それで、主に電話での占いなのだが、タローカ ードを引っ張り出し、相談を受けていると、これが不思議な事に、実によく相手の 直面している問題点の根源が心に浮かぶのである。そして筆者の占段結果に従って 対処して貰うと、呆気なく問題が解決した、と言う事がしばしば起こるようになっ た。 これは筆者には実に意外な事だった。かつて占いや呪術を「必死」になって研究 していた時には実現出来なかった結果が、「真剣には取り組むが、気楽に行う」と 言う方針に転換した途端に、いとも簡単に実現してしまったのである。 そして「病気治し」の方だが、これも意外な事が判った。この手の相談は僅かで はあったのだが、人に相談された時に、占いをやって問題点を指摘したあと、本人 に真言を唱えさせると病状が好転した、と言う実績が何回か生まれたのである。 かくしてその後数年経ち、現在に至っていると言うのが筆者の現状である。 2:透視能力は「魔法」の根源。 さて、筆者の体験談を長々と書いてきたが、この体験を通じて筆者はある確信を 得た。それは、 「『占い』も『呪術』も『根は同じ』」 と言う事である。 筆者は「占いは受動的、呪術は能動的」と言う概念にずっと囚われていたために ずいぶんと遠回りをしてしまったが、要するに、 「『問題を解決するための手段』として捉える限り、『占い』も『呪術』も 同じなのである」 と言う考えが重要だったのだ。 それで、その観点から過去に研究した書物を見直してみたが、そう考えると得心 の行く記述が次々と出て来た。先述した、バトラーの「魔法入門」、「オカルト入 門」には、やたらと「透視能力」と言う言葉が出て来る。「オカルト入門」等は、 「魔法使い」が書いた本なのに、魔法に関する記述はゼロに等しく、殆ど全編に亘 って「透視能力を獲得するための方法」で埋まっている。更に、尾崎師も紹介なさ っておられる「奇跡の超能力[第三の眼]獲得法」と言う本には、はっきりとそう 言う記述もある。無論、筆者もその記述は目にしていたが、当時はその重要性に気 付いていなかったのである。 また、密門会の修行法であるが、これは単純明快、「真言を使う座禅」に他なら ない。座禅が「透視能力」と深い関係がある事は各方面で指摘されている事であり、 筆者が今更改めて言う事でもないのは読者諸兄もよく御存知の通りである。 更に、「占い」が「透視能力」を発現するための手段である事は言うまでもない 事である。 つまり、「魔法」を実現するためには「透視能力」が必要条件と言う事なのだ。 3:「透視能力」とは何か。 では、「透視能力」とはどのような能力なのであろうか。これに関しては、各修 行者の個人的体験による所が大きく、筆者が定義する事は出来ないと思うが、それ を承知の上で筆者の考えを述べると、以下の如くである。 イ:「裏向けたカードの表」は判らない。 筆者には、「『裏向けたカードの表』を知る能力」は皆無である。理由は、 筆者の信ずる所によると、 「オカルティズムの能力は、楽な方向に発現する」 からである。 目の前にある、「裏向けたカードの表」を知るためには、「手でめくればよ い」のだ。必死に念を凝らし、カードの表を知ろうとしても、そのために消費 するエネルギーは、(少なくとも筆者の経験では)手でめくるよりも遥かに大 きく、且つ、知る事が出来る確率は遥かに低い。つまり、わざわざ「透視」で カードの表を知る必要性がない場合は、「透視を諦めさせる方向」に流れるの がオカルティズムの能力である、と言う事である。 ロ:何もない所にはビジョンは見えない。 少なくとも筆者の場合、全く知識のない範囲に対する透視がまともに成功し た験しがない。常識と知識を蓄積し、ビジョンの元となる情報をどれだけ持っ ているかが「透視」を成功させるための鍵となった事は間違いない。 ハ:必要性のある時、透視は発現される。 「イ」、「ロ」に関係するが、「どうしても必要である」と言う場合に遭遇 した時、透視能力は自然に発現する。 過去にこう言う事があった。 ある時、筆者が関わった仕事の書類が見当たらなくなってしまった事があっ たのだが、それを幾ら探しても出て来ない。必然的に、筆者が紛失した事にな ってしまったのであるが、筆者としてはどうしても自分が紛失したとは思えな かった。 困った挙句、色々と悩んでいた時、何とも言えない胸騒ぎを感じ、「もしか してあそこにあるのではないか」と言う「強い感情」と共に、「ある机の抽斗」 が心に浮かんだ。 普通、その書類はそこに入れる事にはなっておらず、当初は考えもしなかっ たために探していなかったのだが、何故か気になって仕方なかったため、その 抽斗を調べてみると、驚いた事に書類はそこにあったのである。 後で調べてみると、同僚が勘違いしてそこに入れていた事が判ったのだが、 肝心な事は、その同僚もその書類をそこに入れたと言う意識が全くなかったと 言う事なのである。 これも考えてみると、もし必要性がなかったら「その中にあるかも知れない」 と言う感情は起きようがなかっただろうし、筆者がその机の存在を知らなかっ たら、その机を思い浮かべる事もなかっただろう。 このように、透視能力を発揮するためには「必要性」と「基本情報」が不可 欠なのである(こうして考えてみると、「占い」はその両方を兼ね備えている 事が判るであろう)。 ニ:「透視」では未来の事は予知出来ない。 これに関しては色々と意見はあろうが、少なくとも筆者には未来の事は全く 判らない。一見、未来を透視したと思えるような経験もあったが、それはあく までも、 「既に決まっていたが、その情報が表に出ていなかったため、一見、予 知に見えた」 だけか、または、 「現在の状況を見れば、そうなるのはどう考えても当然であり、予知と 言うほどの事はない」 のどちらかに過ぎなかった。 4:「透視」と「魔障」 昔、高野山に行った時の事である。 ある宿坊にお世話になり、折角高野山に来たのであるから、と言う事で、部屋で 真言禅(先述した密門会の行法)を行っていた。 一心に真言を唱えていると色々な光景が心に浮かんで来る。そうしている内に、 突然心の中に強い「白い龍の映像」が浮かんだ。 筆者は驚いて行を中断した。そして「五体投地の礼」を行って締め括った後、就 寝した。 さて次の朝である。本堂での勤行に参加した後、僧侶によるその寺院の歴史を聞 いた筆者は愕然とした。 その寺院の本尊は不動明王なのであるが、何と、そこの不動明王は、龍に姿を変 えて衆生の煩悩を調伏する、と言う言い伝えがある、と言うのである(その仏像が 持つ剣には龍が巻き付いており、不動明王像としては珍しいものであった)。 これは明らかに禅で言う「魔障」である。 透視の修行を行う者にはしばしばこのような現象が起きる。「魔障」の特徴は、 「実際には役に立たないが、一見不思議な現象」であると言う事だ。 筆者にしてみれば、別にそこの御本尊であらせられる御不動様の由来や龍の化身 の事を透視で知る必要など全くないし、また、それを透視で知ったからと言って、 別に得になる訳でもない。 しかし、透視の修行をしている最中、このような事が起こったら、大抵の人間は 有頂天になってしまい、「自分は透視能力を獲得したんだ」と自惚れてしまう。こ れが実は非常に害になるのだ。 「魔障」に囚われた行者は間違いなく破滅する。これは、西洋魔法でも「ヒュブ リス」と言って堅く戒められているし、禅においても「修行の最大の妨げ」として 厳重に注意されている。 透視の修行を志す者は、このような現象が起こっても、決してそれに囚われる事 なく、「こんなもんだ」と受け流して戴きたい。その姿勢を貫けば、「魔障」はや がて消え去ってしまう。これは前述した、「真剣に取り組むが、必死にならない姿 勢」と根を同じくするものである。 5:具体的な修行とそのポイント。 さて、いよいよ具体的な修行法に関して述べよう。筆者は、「占い」と「真言禅」 で修行して来たため、それに関してしか言えないのであるが、この2つは筆者の行 法の要である。 占いに関しては、タローカードや易などの、想像力と連想力を駆使するものを選 ぶ。無論、可能ならば水晶球占いでもよいだろう(水晶球占いはそのまま透視能力 の訓練である)。 筆者の場合、タローカードを使い、大アルカナ22枚の正位置だけを使って占っ ている。スプレッドは殆ど「ヘキサグラム・スプレッド」のみ。それで充分であり、 不要な物を減らした方が連想が働き易いからだ。 しかし、前述したように、「決して未来を知ろう等と考えない事」が肝心である。 達人の域に達すれば予知が可能になるのかどうかは知らないが、少なくとも筆者の 場合は「未来を予知しようとして行った透視の結果」は「碌な物ではなかった」事 は事実である。 真言禅に関しては、基本的に座禅と同じである。ただ違うのは真言を唱えるか唱 えないかだけである。 真言を唱えると言う事は、実は呼吸法と密接に結び付いている。「一気に吸って ゆっくり吐く」と言う呼吸法が意識せずに行えるので非常に都合がよいのだ。 従って、これに関してはここで詳述する事は割愛する。座禅の入門書は多く出て いるし、指導してくれる所も多いので、そちらで学んで戴きたい。但し、通常の座 禅においては真言は唱えないので、自室で行ったりする時においてのみ、自分自身 の責任において行って戴きたい。禅寺の参禅会等に行って教えを請う時に真言禅を 行う等の行為は以ての外である。 余談ながら、筆者の場合、真言禅を行っていると、眉間に「軽い、心地よい緊張 感」を感じる。そしてそれがビジョンと結び付いている感じがする。但し、これが ヨガで言う「アジナ・チャクラ」と何か関係があるかどうかは判らない。 6:終わりに。 これほど長い駄文を最後までお読み戴き、感謝に堪えない。賢明なる読者諸兄に あらせられては、このような文章など「釈迦に説法」の感を免れない事は重々承知 の事ではあるが、それでも何かの御参考になればと考え、ここに筆者のささやかな る体験を記すものである。 1999年7月29日 VIA MEDIA E-MAIL:slc31551@biglobe.ne.jp --------------------------------------------------------------------------